読了『私とは何か』

2019/07/21読了。

どこかにも書いたが,私はその心くすぐる演出とセリフ故にマンガ『宇宙兄弟』が大好きなのだが,その編集者である佐渡島さんの著書2冊を以前レビューした。
それでも世界はループ!

2019/03/30読了。 もうあっという間に年度末。 2月下旬〜3月から遂に1人暮らしを始め,その前後のバタバタもあり…

それでも世界はループ!

2019/05/02読了。『WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE.』を読んでから,佐渡島さんの考え方…

いずれの本も大いに共感しつつ読んだせいで首肯しすぎて首が痛くなったのはさておき,『ぼくらの仮説が世界をつくる』にて本書・『私とは何か』が紹介されていた。
論文の引用関係と同じで,面白い本で紹介されている本が面白くないわけがない——ということでその場で注文した覚えはあるのだが,例によって読み始めるのは随分とタイムラグがあるぐうたらな私である。

で,ようやく読み終えたのだが期待以上に面白かったのでまたしても興奮冷めやらぬまま感想文を投下してみる。文章というものは本来一晩寝かせた方がオイシクなると言われているが,そこはそれやはり鉄は熱いうちに打て,である(金言の典型的な誤用)。

「個人」とはなにか

と問われたとき,まずは英語を考えてみよう。なぜって,そもそもが「個人」なる単語,もとい概念は近代以降に西欧から日本に輸入されてきたものなのだから。

曰く,個人は英単語で言えば”individual”。なんてことはない中学生の単語である。
さらにもう少し詳しく見ると,この単語は(否定を表す)”in”と,(分けるという意味の)”divide”から成ることに気付く。つまり,「わけられない」という意味になる。

国や経済を論じる社会学や,進化や(哺乳類などの)カテゴリを扱う生物学において,最小の単位は一人の人間だったり,一頭の馬だったりする。
もうこれ以上分割して考えられない,ということから”individual”はやがて「個人」なる単語の意味を獲得し,そちらがメインの意味となった。英単語を見る限り語源を類推できるからまだマシだが,日本語の「個人」という単語を見るだけでは本来の意味を想起するのは不可能に近い。

そんなわけで,「個人」という概念には,意識こそしないが「これ以上はわけられない」=「ひとつの」という意味が通底する。
なるほど確かに生物としてはその通り。心はどこに宿るのかという問いを持ち出すとややこしくなるが,私を含めて大抵の人間は「分身」できないはずだ。

では,私たちの人格はどうなんだろう? というのが本書の肝。

「本当の自分」とはなにか

よく耳にする「本当の自分」というワーディングがある。考えてみれば変な言葉だ。
私はいつだって私であり,私以外の私などいるはずがない。トートロジーかつ逆説的だが,「本当の」と修飾するからには「ウソの」私がいることになる。

本当にそうだろうか?

高校の時の友人と話すとき,大学の友人と話すとき,会社の上司と話すとき——それぞれのシチュエーションで,相手が私に感じるキャラは絶対に違う。そこまでは同意が得られるはずだが,問題はこの先だ。

私たちが通常思う考え方はこうだ。
相手によってキャラが違うといっても,その根本には似たような人格が存在するでしょ? それが「本当の自分」だよ,と。

しかし,この考え方には問題が3つある。長くなるので箇条書きにてご勘弁。

  1. もしそうなら,私たちはピュアな「本当の自分」でコミュニケーションをとることができないということになる。皆,仮面舞踏会のようにコミュニケーションをとっているのだろうか? ちょっとこれは不当に人格を卑下しているように見える。
  2. 人格は,自分から相手に向けて一方的に与えるものではなく,相互的なコミュニケーションの中で成立するものである。
  3. これが一番本質的だが,複数の相手に対する人格の共通項が「本当の自分」とするならば,「本当の自分」には実体がない。換言すれば,幻想である。

ーー以上をまとめると。
まるで中央集権のように「本当の自分」に価値を見出し自分の複数の人格の中心に据えたくなる気持ちはわかる。
その原因は,「自分」は個人=individual=分けられない存在であり,「本当の自分」に唯一性を求めてしまうという錯覚にある。

しかし本書の主張は,そうではなく寧ろドーナツのように,中央には人格なんてものはなくて,同心円状に並んだ複数の人格の総体が「私」である,と考える。ドーナツの円環すべての人格は,すべて「本当の自分」である。

「本当の自分」は分けられる存在である。すなわちindividual=「個人」というよりも,dividual=「分人」である。

「分人」とはなにか

本書によれば,人間は複数の人格,つまり分人を持つ。ただしそれらは同一のレベル感で存在しているわけではなく,大きく以下の3つの階層に分けて考えられる。

  1. 社会的な分人
    • 不特定多数の人とコミュニケーション可能な,汎用性の高い分人
  2. グループ向けの分人
    • 特定のグループに向けた分人
  3. 特定の相手に向けた分人

基本的に,数字が大きくなるほど深化されていると考える。これらはすべて相手との双方的なコミュニケーションによって生じるもので,なおかつコミュニケーションを取った絶対的な時間に依存するわけではない(会って即座に意気投合できるような不思議があるから人間は面白いんだ……)。

「分人」を巡って上記のような仮説を置くと,いくつかの面白い例が観測できる。
レビューもだいぶん長くなってきたので,いくつかをピックアップして終わりとしたい。

八方美人と分人との関係

エレベータで一緒になっただけの人間同士で会話するような分人は,汎用的な「社会的な分人」である。これは有用であるが,一方で自分と親しい人には「自分向けの分人」を出して欲しいという期待がある。
逆に言えば,誰に対しても同じ「分人」で接し,「特定の相手に向けた分人」への深化を怠るような人間を疎ましく思ってしまう。これが,八方美人の正体である。

愛と分人との関係

いわゆる普通の「愛」とは個人対個人でするものであった。しかしこれを分人のレベルで観測するとちょっと違う。
つまり,「その人と一緒にいるときの自分(=分人)が好き」という状態が「愛」とも言える。
愛とは,相手の存在が,あなた自身を愛させてくれることである。相手もそうであればすなわち文字通り「かけがえのない」存在になるということ。

「私と仕事どっちが大事なの!?」と分人との関係

「比較できないものを比較するな!」の代名詞でもある上記のセリフ。普通であれば誹りを受けるところだが,分人で考えるとちょっと違うから面白い。
すなわち曰く,「私(といるときの分人と)と仕事(しているときの分人の)どっちが大事なの!?」となる。おーこわい。

死/失恋の悲しみと分人との関係

分人を深化させるほどの相手との別れはツラい。
別れたあと,その深化した分人が機能する機会がもう二度と来ないからである。

まとめ

上記では,「分人」についてしごく簡単にまとめてみた。
作家が渾身の力で書いた約200ページを,たかが素人のサイトの一記事で紹介することの愚は百も承知だが,盲目的な「個人」思想を見直し,「分人」なる新たな考えをインストールするのもまた人生の一興だとちょっとでも感じてくれる人がいると嬉しい。

ちょっとエモい言い方をすると,新しい自分=分人に会えるという点で,読書はなんて贅沢な営みなんだろうと思った一冊であった。