読了『宇宙に命はあるのか 人類が旅した一千億分の八』

2019/09/30読了。

私はマンガ『宇宙兄弟』が好きである。それはマンガのストーリー展開や登場人物のきめの細かいセリフ・演出が素晴らしいのもあるが,そもそも扱うテーマが「宇宙」だという理由も大きい。

幼少期,私が初めて書いた「将来の夢」は宇宙飛行士だった。女の子の多くがケーキ屋さんとかお花屋さんと書くように,男の子は須くこう書くものだと私は今でも信じて疑わない。「サッカー選手」はあまりに現実味がなさ過ぎると思った気はするが,なぜ「宇宙飛行士」と書いたのか。そこに,個人の範疇を超えた「夢」なるものの存在をそれこそ夢見ていたように思う。
なお,そんな私はとある企業で機械学習の研究をしているのであり,いまいち当時の夢とリンクしてないことに一抹の寂しさを覚える。

話がややそれたが,『宇宙兄弟』において魅力的なのは,主人公・ムッタの宇宙に対する飽くなき情熱それ自体にある。
そんなムッタが表紙を飾る本作・『宇宙に命はあるのか』。面白くないわけがない。
ちなみに著者の小野雅裕さんはNASAの現役エンジニア。研究開発の傍ら,こんな本を書けるなんて嫉妬してしまう。

心で戦慄く「何か」の存在

序章にこうある。

[aside type=”boader”] 想像してみよう。遠くの世界のことを。
想像してみよう。あなたは火星の赤い大地に立ち,青い夕陽が沈むのを見ている。
想像してみよう。あなたは宇宙船の窓から「星月夜」の絵のような木星の渦を間近に見下ろしている。
想像してみよう。あなたは土星の衛星タイタンの湖岸に立っている。オレンジ色の雲から冷たいメタンの雨が降り,湖面に輪を描いている。
今,あなたの心の奥深くで何かが戦慄くのを感じなかっただろうか? 何かが囁くのが聞こえなかっただろうか? 言葉になる前の,意識にすら上る前の,何かが。
それは古い。とても古い。スプートニクよりも,コペルニクスよりも,ホメロスよりも,ストーンヘンジよりも古い。川や森や山よりも古いかもしれない。
それは寄生虫のように人から人へと伝染する。人類の集合的な心の奥底に潜り込み,人の夢を,好奇心を,欲望を見えない糸で操り,人類の歴史,運命,未来に干渉する。
それは一体,何だろう?
[/aside]

これの「何か」が,この本に徹頭徹尾込められているメッセージだ。このメッセージを読んで,マンガ『寄生獣』の一幕を思いだした日とはきっと私だけではないだろう。

過去から続く飽くなき情熱

本書の前半では,今まで宇宙開発に情熱を燃やしてきた偉人たちの貢献を知る。
それは世に知られた「偉業」ではないかもしれないが,間違いなく世界を宇宙に向けて前進させた試みだった。
“SFの父”ジュール・ベルヌ,”ロケットの父”,夢を叶えたフォン・ブラウン……宇宙史に詳しくなければ聴いたこともない偉人達の業績と苦悩と情熱が,力強く描かれている。

ついでアポロ計画,ボイジャー姉妹による太陽系外惑星の探索。ここ50年の圧巻の進歩がよくわかる。
ところで本書の副題である「人類が旅した一千億分の八」。この銀河系には少なくとも一千億の惑星があるとされていて,今までに人類が探索機を送り込んだのはまだ八つしかないのだ。
イマジネーションの灯は,まだまだ燃える。

Are we alone?

いわゆる地球外生命体の話。
でも,不可思議なことに人類は「生命」を説明する術をまだ持っていない。もちろん,地球上の生命は説明できる。私は一応生命体のつもりだし,いままさに触れているキートップは非生命。一寸の虫にも生命は宿る一方で,息を呑むような絶景を生命体として見なすことはない。

つまるところ,「生命」は機能的な概念である。「生きている」と思えるものをまとめて見ると,それが呼吸をするとか子孫を残すというようなカテゴリでくくれることがわかる。これを地球上の「生命」として定義しているに過ぎない。

ただし,地球外においてもこの定義が適用できるとは思えない。
僕ら人間は遺伝子を持ち,アミノ酸によって構成される。重要なのは,これは地球のみで存在する「生命におけるレゴのパーツ」(レゴ・システム)なのかもしれない。まったく別の生命体系があるかもしれない。
それゆえに生じるのが”Are we alone?”という疑問。人類皆兄弟だけど,人類は誰かの兄弟であるのだろうか?

こんなことを考えると無性にワクワクすると同時に,「生命」の定義はやはり難しい。
その道標となるのが,カール・せーガンによる次の言葉だ。
[aside type=”boader”] Life is the hypothesis of last resort.
生命とは最終手段の仮説である。
[/aside]

宇宙で何か新しい現象が見つかったとき,それを説明できる仮説が,生命現象と非生命現象の2つあったとする。このとき採用すべきは,非生命的仮説である(このように,現象を支持する仮説が複数あるときに科学はよりシンプルな方を採用する,という原理を「オッカムの剃刀」という)。
つまり,あらゆる非生命仮説が却下され,ただ1つ残った仮説が「それが生命である」という仮説であったならば,それが採用されるというわけだ。「生命とは最終手段の仮説」とはそういう意味だ。

だから,地球では考えられない事象を見つけ,それがあらゆる非生命的仮説をもってしても説明できないとき,はじめて人類は人類以外の「レゴ・システム」を見つけたことになり,すなわち「人類」は孤独ではなくなるのである。

まとめ

なんて情熱的な本なんだ。読んでよかった。

エピローグが読後感に追い打ちをかけるように心憎いので,ちょっと長いがそれを引用してレビューを終える。

[aside type=”boader”] この度で僕が最も伝えたかったことは何だったか,読者の皆さんにはすでにおわかりだろう。
イマジネーションの力だ。
宇宙開発のみならず,あらゆる科学技術は,ただ方程式を解いたり,望遠鏡や顕微鏡を覗いたり,図面を引いたり,プログラムを書けば前に進むものではない。それは例えるなら車の部品のようなものだ。タイヤやエンジンが勝手にどこかに走るのではない。運転手の南へ走るという意思が車を実際に南へと走らせる。その意思がイマジネーションだ。
もしかしたら現代は,人々がイマジネーションを働かせる余裕に乏しい時代かもしれない。テレビやインターネットやスマホが片時も休むことなく情報を吐き出す。自分から頭を働かせなくとも,生活空間はほんの小さな隙間すら情報で埋め尽くされる。旅先の静かな夜や,待ち合わせに遅れた恋人を待つ甘い時間さえ,スマホは余念無く我々の心を情報の鎖で縛り,イマジネーションを働かせる自由を奪う。
もし今度,晴れた夜に外を歩く機会があったら,あるいは仕事帰りにバスを逃してバス停で待つ時間があったら,スマホをポケットにしまい,夜空を見上げて欲しい。きっとそこに輝いているはずだ。大昔から人のイマジネーションの源となり続けた,淡くまたたく星屑が。毎日形を変える銀色の月が。星々の世界に遊ぶ惑星たちが。運が良ければ流れ星が走るかもしれない。人工衛星や国際宇宙ステーションも見えるかもしれない。
想像してみよう。その美しい星空に,淡い天の川の流れの中に,一千億の世界があることを。
想像してみよう。その多くの世界には,雲が浮かび,雨が降り,川が流れ海にそそいでいることを。
想像してみよう。その世界に生える不思議な形の植物や地を闊歩する異形の獣のことを。
想像してみよう。その世界に生まれた好奇心とイマジネーション溢れる知性を。
彼らはどんな言葉を喋っているのだろうか。
彼らはどんな知識を持っているのだろうか。
彼らはどんな哲学を持っているのだろうか。
彼らはどんな歌を歌っているのだろうか。
彼らは何を美しいと思い,何を愛おしいと感じるのだろうか。
そして想像してみよう。彼らの世界の夜空に広がる満天の星を。その無数の星屑のどこかに,太陽系がある。
想像してみよう,彼らが我々と同じようにその夜空を見上げ,想像に耽っている姿を。
想像してみよう。彼らが何を想像しているのかを。
[/aside]